重賞競走
'03 エンプレス杯(中央交流) G2
'02 スパーキングLC(中央交流) G3
着順 | 日付 | レース名 | 競馬場 | 芝ダ | 距離 |
1 | 2003年02月26日 | エンプレス杯(中央交流) G2 | 川崎 | ダ | 2100 |
1 | 2002年07月11日 | スパーキングLC(中央交流) G3 | 川崎 | ダ | 1600 |
2 | 2002年10月02日 | クイーン賞(中央交流) G3 | 船橋 | ダ | 1800 |
2 | 2003年04月28日 | マリーンC(中央交流) G3 | 船橋 | ダ | 1600 |
2 | 2006年04月05日 | マリーンC(中央交流) G3 | 船橋 | ダ | 1600 |
3 | 2003年01月29日 | 川崎記念(中央交流) G1 | 川崎 | ダ | 2100 |
3 | 2004年02月26日 | エンプレス杯(中央交流) G2 | 川崎 | ダ | 2100 |
3 | 2004年03月24日 | ダイオライト記念(中央交流) G2 | 船橋 | ダ | 2400 |
3 | 2005年01月19日 | TCK女王盃(中央交流) G3 | 大井 | ダ | 1800 |
1 | 2000年09月17日 | 若葉賞 | 上山 | ダ | 1500 |
1 | 2000年10月29日 | 若駒賞 | 上山 | ダ | 1700 |
1 | 2005年02月23日 | 報知GPC | 船橋 | ダ | 1800 |
1 | 2005年11月03日 | TCKディスタフ | 大井 | ダ | 1800 |
2 | 2003年12月10日 | 京成盃グランドマイラーズ | 船橋 | ダ | 1600 |
3 | 2001年10月14日 | 姫川特別 1000万下 | 新潟 | 芝 | 2000 |
3 | 2002年12月11日 | ファーストレディー賞 | 大井 | ダ | 1790 |
年 | 主催者 | レース回数 | 1着 | 2着 | 3着 | 着外 | 賞金 |
2000年 | 地方 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 8,780,000 |
2001年 | 中央 | 3 | 0 | 0 | 1 | 2 | 3,639,000 |
2001年 | 地方 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 280,000 |
2002年 | 地方 | 9 | 5 | 2 | 1 | 1 | 64,730,000 |
2003年 | 地方 | 5 | 1 | 2 | 1 | 1 | 70,950,000 |
2004年 | 地方 | 4 | 0 | 0 | 2 | 2 | 18,500,000 |
2004年 | 中央 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
2005年 | 地方 | 7 | 2 | 0 | 1 | 4 | 38,500,000 |
2006年 | 地方 | 3 | 0 | 1 | 0 | 2 | 11,450,000 |
合計 | 中央 | 5 | 0 | 0 | 1 | 4 | 3,639,000 |
合計 | 地方 | 33 | 13 | 5 | 5 | 10 | 213,190,000 |
親から子へ、子から孫へと受け継がれるストーリーがあります。そして、それは競馬をより魅力的にしてくれる大切な要素のひとつです。もし、競馬から血統というものを抜いてしまったら、きっと味気ないものになってしまうに違いありません。
2021年のダートグレート競走特別賞を受賞したカジノフォンテンの母ジーナフォンテンは、まだグランダムジャパンシリーズが創設される前の活躍雌馬でした。今はなき上山競馬場でデビューして、途中11か月に及ぶ休養をはさみながらも5連勝。JRA移籍初戦の姫川特別では初めて経験する芝コースにもかかわらず出走メンバー最速の末脚で差のない3着となっています。その後、さらなる活躍の場を求めて南関東へと転厩して4歳時に川崎競馬場で行われた第6回スパーキングレディーカップ(ホクトベガ・メモリアル)で交流重賞初制覇を記録しました。
このレースはジーナフォンテンにとって初めてのナイター競馬、しかも台風の影響で1日遅延でした。馬体重はマイナス14キロでの出走となり、またレースでも出遅れるなど楽観を許さないものでしたが、最後は5頭が入り乱れる接戦を制して管理する山浦武調教師に初の重賞タイトルをもたらしました。
当時、山浦調教師は
「皮膚の薄い馬。骨格がしっかりとしていて筋肉の上に高価なシルクを乗せたよう。」
と表現しています。
翌年2月の第49回エンプレス杯(川崎競馬場)で交流重賞2勝目をあげ、その後も長くタフに現役生活を続け8歳春のマリーンカップ2着を最後に引退。通算38戦13勝という成績を残し2007年から生まれ故郷の登別上水牧場で繁殖生活をスタートさせました。
「ジーナフォンテンが戻ってきた日のことはよく覚えています。重賞競走を勝つような馬はどんな体なのだろうかと興味がありました。骨がしっかりしていて大きな蹄の馬で、筋肉量にも恵まれていました。こういう馬を作らなければと強く感じました。」
と、言いながら26歳となったジーナフォンテンを案内してくれたのは同牧場の上水厚さんです。
2020年の種付(結果は不受胎)を最後に15年間に及ぶ繁殖生活を退き、引退名馬となっています。
「今年、27歳の母馬が出産したというニュースを見ました。ちょっと、引退が早かったかな。」
と上水さん。
しかし、種雌馬生活で得られた産駒は6頭でした。
「最初から受胎の難しい馬で、しかも受胎しても流産してしまうケースも多かった。」
と残念そう。得られた6頭の産駒中で、誕生日が最も早いのはカジノフォンテンの3月29日だったことが、生産牧場としての苦悩を表しています。
「母親としては一生懸命に子育てをする優秀な母親でしたが、種雌馬としては種雄馬の特性を出すタイプの種雌馬でした。カジノフォンテンは母親そっくりでしたが、ほかの産駒はあまり似ていませんでした。」
と振り返りますが、活躍雌馬が種雌馬としても活躍馬を送り出すことがどれほど難しいことかはサラブレッドの歴史が証明しています。
そんなジーナフォンテンは、
「アブが嫌いなんです。これからの季節はアブとの戦いですね。」
とのことで、現在はアブが比較的気にならない午後2時くらいから翌朝8時までを放牧時間に充てています。年齢とともに膝が曲がってきていますが痛みや腫れはないそうです。
「膝に負担がかからないようにと装蹄師の方には苦労をかけていますが、そのおかげもあって良く動いてくれます。歯も丈夫ですし、今のところ健康状態に不安はありません。」
とのことです。
そんなジーナフォンテンとの再会を楽しむファンの方は少なくないそうで、カジノフォンテンがチャンピオンズカップに出走した2021年に地元の中学生がご家族と一緒に牧場を訪ねてくれたそうです。
「将来は、競馬業界で働きたいと考えている中学生でした。カジノフォンテンの母馬が、こんなに近くにいると知って足を運んでくださったそうです。遠方から足を運んでくださる方は多いのですが、地元の方は珍しい。先方も驚いていましたが、こちらも驚きました。」
おそらくですが、その中学生にとって競馬が、サラブレッドが身近なものとなったことでしょうし、馬から大きな勇気を貰ったに違いありません。
「ジーナフォンテンは元気にしていますので、ご安心ください。年間の生産頭数が10頭にも満たない生産者ですが、ジーナフォンテンやカジノフォンテンを超えるような馬づくりを目標に頑張りますので応援してください。」
と張り切っています。